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技術を支える職人たち 〜時計技術者紹介〜

取締役会長 田村 亨

「ひたすら時計を愛すること」

有限会社 田村時計工作所の創業者、田村 亨 会長にお話しをお伺いしました。

■ 会長は時計業界に入って何年になるのですか?

会長などと呼ぶ必要もないほどの小さな会社ですが、便宜上、会長と呼ばれております(笑)
早いもので60年になります。当時は就職難の時代で「手に職を」という思いからもともと興味のあった腕時計職人の仕事に魅力を感じておりました。

その後、就職した時計組立メーカーで10年の間、組立技術を学んだのち時計修理工房で4年間修行しました。

■ 丁稚だった下積み時代の体験談を聞かせてください

皆さん、よく耳にすると思いますが、仕事は親方の背中を見て覚えると言いますね。
時計職人の世界もまさにこの通りでした。だれも教えてくれないので、そのやり方から手つきまでを見よう見まねで覚えました。失敗すれば親方からは怒鳴られるし、いつも緊張の連続でした。今思えば、古い職人の世界ではそのノウハウは何も数値化されていないのですから、すべてが感覚の世界。きっと教える術さえもなかったですよね。

手巻式ムーブメントの量産組立では、セイコーで日本で初めて中3針時計が量産された頃で、当時は歯車の噛み合い量なども、ひとつひとつ修正、調整しました。

ゼンマイの強さなんかもまちまちで、時計ひとつひとつに個性がありましたから、スムーズなザラ回りを出すことにとても苦労しました。ヒゲゼンマイの縦横の振れ取り、テンプの振れ取り、片重りの修正、アンクルの爪石の出し入れなどなど、すべてを手作業にて、適正な振り角の維持や姿勢差の調整を行い、しかも、量産品ですからどれも均一に仕上げなければならず、それはそれは苦労したものです。

こうした経験を積みながら、指先の感覚だけで時計の仕組みから構造、特性までを覚えていきました。でも、親方から一人前になったと言われることはなかったですね。

■ その後、独立し田村時計工作所を設立したのはいつのことですか?

昭和38年4月に独立、開業し、昭和41年(1966年)6月に会社として設立しました。

■ 創業から46年、どんな歴史を歩んできたのですか?

創業当時はリコー時計㈱の下請けとして、手巻式ムーブメントの組立てを担当しました。ラコー型のムーブメントは当時の大ヒット商品です。ムーブメント組立てと平行して、都内の有名デパートの時計修理を請け負ったほか、たくさんの時計修理を行っておりました。

■ やがて、クォーツムーブメントの発明により業界はクォーツ時計が主流となり、大量生産の時代へと突入していきましたね。

はい、クォーツムーブメントは自動生産によりオートメーション化されたのを期に、我社の仕事は腕時計のアッセンブルへと主軸をシフトしていきました。

売れよ作れよの時代、最盛期には月産10数万個もの時計を組立てるアッセンブルの専門工場となりました。セイコー、オリエント、リコー、マルマンなどの大手や有名デザイナーズブランドのOEM商品などを生産しました。ムーブメントはオートメーション化されましたが、組立てはすべてが人の手作業によるものです。これだけの数の時計を手作業で組み立てるのですからそれは大変な作業でした。

■ 時計修理のお仕事は?

壊れたら買い換える。まさにバブル全盛期でしたから修理のお預かりなんてありませんでしたよ。今の時代では考えられないことですよね。
やがて、国内大手メーカーが生産の拠点を香港、中国へシフトしていったため国内での生産量が激減、国内空洞化現象により会社はジリ貧状態に落ちていきます。
少量の仕事を同業者同士が取り合うこととなり状況は更に悪化する一方でした。まさに天国と地獄を経験しました。

■ 会社はどのように生き延びてきたのですか?

東京で時計販売の営業マンをしていた長男の眞を急遽呼び戻しました。
長男の意見で、永年培ってきた技術を生かせるならばと、時計修理の仕事を復活させようということになりました。やがて次男の豊も加わり、時計修理技術に更なる磨きをかけました。

■ いよいよ修理部門の立ち上げですね。

ただ、「昔取った杵柄」とは言っても、一筋縄にはいきませんでした。
量産体質だった組立工場を、一個対応の必要がある「修理」に転換することは容易ではありませんでした。分業により同じ工程を繰り返すことで、あっと言う間に大量に出来上がってしまう量産組み立てと違い、修理というのは100個あれば100通りの不具合があるわけです。ですから100通りの対応が必要になるのです。でも、従業員みんなで苦労した甲斐がありました。
少しづつ軌道に乗りはじめ修理をまかせてくださる業者さんが徐々に増えてきました。転業に遅れをとった量産組立の同業者さんたちは一様に時計業界を去り、または廃業へと向かいました。

■ 現在の田村時計工作所は?

平成18年に長男の眞が社長に就任、私はお役御免となりました。
「時計組立て」と「時計修理」を両立しながら下請けのお仕事をいただきおかげさまでなんとか生き延びてきました。   
2007年、Webショップ「tamtime」をオープン、一般のお客様へ向けた時計修理サービスを開始しました。
これまで培ってきた時計修理ノウハウを持って、余すことなくお客様に還元することが出来ればと思っております。

■ では、会長自身が時計職人として日々心がけていることは?

職人は毎日毎日、とても多くの時計と向き合っていますので、つい忘れがちですが自分が今、向き合ったこのひとつのお時計は、お客様にとってはかけがえのないひとつなのです。このことをいつも肝に銘じて作業に挑むようにと話しております。

■ これからの若い時計職人たちにひとことアドバイスを

永年の時計組立の体験から、時計修理とは、限りなく新品に近づける努力であると感じております。そのためには製造規格、許容範囲など、新品を組み立てるための技術や知識を完全にマスターしていなくてはならないと思っています。量産を経験して初めて工具を扱う基本のフォームが身に付くのです。

アドバイスするならば、、、ひたすら時計を愛すること。時計はそれだけの魅力を持っています。自分の努力によって一度は死んだ時計に再び生命を与え、その時計が生き生きと動く姿を見る時の喜びは何物にも代え難いことです。

もうひとつは、単に分解組立をするだけでなく、時計の構造、理論を数値的にマスターしてほしい。いわゆる名人芸に数値的な裏づけが得られれば鬼に金棒になりますよ。

■ 時計職人としてご自身のこれからの抱負はどんなことですか?

80歳を越えた現在では、自分の役割は終わったと思っております、ダメですか?(笑)。息子たちを含む次世代には、私の今までの生き方を継承して、更に新しい分野に乗り出して行って欲しいですね。

■ 時計職人としてお客様に言いたいことはありますか?

腕時計は200年にも及ぶ、人間の知恵の結晶品です。腕という一番身近なところにいつも存在する小宇宙として、いつまでも愛していただき、メンテナンスを惜しまず、ずっと愛用し続けて欲しいものです。私たちの修理工場は全力をあげてそれをサポートさせていただきます。