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技術を支える職人たち 〜時計技術者紹介〜

代表取締役社長 田村 眞

「親切丁寧であること」

有限会社 田村時計工作所の社長 田村 眞社長にお話しをお伺いしました。

■ 時計業界に入って何年になりますか?

時計業界に入って、と言うよりは「時計業界に産まれて」ですかね。(笑)
時計職人の元に産まれたのですから。昭和41年、親父が会社を設立した年に産まれました。

私とこの会社はちょうど同い年ということになりますね。幼少のときは壊れた時計をおもちゃにして遊びました。

■ 産まれながらの時計技術者なのですね?

ところが違うんです。親の仕事にはあまり興味がありませんでした。当時は家内工場でしたから親父は毎日家にいて時計ばかり作っていました。朝から晩まで働いてばかり、今で言うオンオフの切り換えなんか全くないんです。
ですから背広着て電車で通勤しているお友達のうちのサラリーマンのお父さんのほうがカッコよく見えていました。僕は職人なんかより「サラリーマン」にあこがれてたんです。「サラリーマン」、なんか強そうな名前に聞こえました。(笑)やがて、工場と居宅が別々になると、親父の仕事姿なんか見る機会もなくなりましたからますます職人の世界とは疎遠になっていきました。

■ お父様の会社を継ぐことは考えなかったのですか?

高校を卒業しデザイン専門学校に通いました。小さい頃から絵を描くことが好きでしたからきっとデザイナーにあこがれたんですね。僕らの時代はPCも普及してなくて、CADシステムなんかもありませんでしたから、ただひたすら手書きでの図面書きとデッサンばかりでしたね。先生からは「ヘタクソ!やり直し~」と言われながら結構大変でした。それでも地味な時計職人よりデザイナーのほうがはるかにイケてるし、親父の会社のことなどはまったく考えずに過ごしました。
その後、腕時計を企画・販売している会社に就職します。1990年、24歳の頃です。

■ えっ、腕時計の会社ですか?

たまたまです。腕時計を扱っている小さな会社でした。
時計卸販売の営業回りをしながら通販会社で販売するための時計をデザインしました。まさにバブル真っ盛りの時期でしたから作れば作っただけ売れましたね。だから僕の描いたデザインがヒットしているんだと錯覚したものです。(笑)

バブル崩壊と時期を同じくしてこの会社が倒産、その後、ファッションウォッチの大手メーカーに拾ってもらいました。
ここでは、営業マンとしてカメラ量販店を担当し、全国各地を飛び回りました。
やがて、時計デザインの経験を買われて商品企画部にてデザインを担当します。その商品こそ低価格の時計でしたが、ファッションウォッチはその名の通り、ファッション業界の動きと連動し、季節の流行を反映した最先端のデザイン性が必要でした。企画やデザインはめまぐるしく変化していくため、製造元の香港や中国への出張も多く、とても忙しく時を重ねました。この会社は、あの「週間ダイヤモンド」にて部門別伸び率での全国No.1にも選ばれました。一社員としてもあの出来事は嬉しかったですね。

■ そんな充実した日々が一転するんですね

そんな時、父から声がかかりました。「会社が大変になる。帰ってきてくれないか。」
主要取引先である大手国内メーカーはこぞって生産の拠点をチャイナほかアジア諸国への移管の動きがはじまっておりました、国内での組立て仕事が激減してきてしまったのです。今日もなお続く、国内空洞化の始まりでした。職人畑の父と営業畑の息子、育った畑は違うけど、交われば何かが産まれるのではないか。そう言ってファッションウォッチ会社の社長も背中を押してくれました。

■ 田村時計工作所の改革ですね

当時は相当焦っていたんです。親父の会社に来た以上、僕がなんとか貢献しなければという思いが強かったのを覚えています。そして、時計販売の営業マンだった経験をいかして腕時計の仕入れ販売をはじめました。 
時計の仕入れ販売は右から左へ、次から次へとさばくだけ。工賃という技術料をもらう組立て仕事なんかより、はるかに効率のいいものでした。調子に乗って有頂天になった僕は、きっと盲目になっていたんですね。取り込み詐欺の被害にあってしまいました。急に連絡が取れなくなった相手先の事務所に駆け込むと、そこはすでにもぬけの殻でした。
銀座にあるオシャレなオフィスビルでしたよ、トレンディドラマで見るような。その時のショックと身の丈に合わないことをしてしまった代償は大きかったですね。

それじゃあ、身の丈に合った仕事、そう、組立で培ってきた技術を生かせる仕事はなんだろう?。。。。。。
「時計修理」だ!そう直感した僕はその昔、修理職人だった父と試行錯誤をはじめましたが量産組立とは勝手が違う修理仕事への転換は容易ではありませんでしたね。一個対応が必須の修理ですから、個々の所要時間もたくさんかかります。そのため仕事もはかどらず、一日かかってもわずかな数しか仕上がりませんでした。そこで、量産組立で得たノウハウを修理に生かすことを模索した結果、今まででは考えられない数量をこなすことが出来るようになりました。そのノウハウを武器に、時計メーカー様や並行輸入業者様、時計小売店様などの倉庫に眠っていた不良在庫品の山を片っ端から修理して差し上げました。

このように業者様からの下請け修理を永年経験し、あらゆるブランドでも対応できるようになった経験とノウハウを一般のお客様にも還元したいとの思いで2007年、Webショップ「tamtime」をオープン、インターネットでの時計修理サービスを開始しました。ムーブメントのオーバーホール技術はもちろん大事なのですが、弊社では製造時代の経験を生かすことで、外装の修理にその持ち味を発揮しました。他店様で断られてしまったガラス製作、ブレスレット切れ、キズ取り研磨など、外装の修理仕事は率先してこなしました。時計修理というものは、言い方を変えれば「永い間、お客様が使い込んだのちに壊れてしまった中古のお品」です。これを動くようにするのですから、すごく大変な仕事なんです。しかも腕時計はとてもデリケートな精密機械です。修理には時計修理技能士という国家資格もあるくらい、専門的な知識が必要です。時計職人は、このような知識と経験を兼ね備え、日々時計と向き合っているのです。

■ 田村時計工作所とは?

いつもお客様に喜んでいただける腕時計専門の修理屋さんでありたいですね。スピードも大事なのでしょうが、それ以上に親切丁寧であること。時計屋さん店頭の店員さんはいわば販売が専門職です。我々技術者は、職人ならではの目線から、ムーブメントについての説明や、不具合の原因などをお客様に直接、ご説明、アドバイスが出来るわけです。

いままでは縁の下に居た職人さんが、直接お客様と対話することでお客様のご満足につながればと思っております。
今後は時計修理技術者も年々歳をとり、老齢化していきます。時計業界は、クォーツ全盛期には、機械式時計技術者の育成を怠ってきたため経験を積んだ40~50代の技術者は極端に少ないのが実情です。その下の若い技術者を育て、技術の継承を行うことが急務であると感じております。

■ ご自身の夢は?

ここまでは、父の引いたレールをほんの少し延ばした程度でしょうか。今後は、さらにあらたなレールを継ぎ足していきたいですね。背伸びをせず、自分の好きなことをやってみたいです。デザイナーの経験を生かすならば、職人こだわりのオリジナル時計を作ってみるのも楽しいでしょうね。